長生治療院 院長のひとり言。

西村院長

 

精神力

 これによれば、だれでも、自分の中には、感情よりも、理性よりも、もっと優れた尊い、いわば霊性​といったものがあります。つまり、本当の自分、天風先生はこれを「真我」​つまり真実の​と我の​という漢字を書きますが真我があるということです。つまり、人間の生命の中には、心や肉体よりも、一段と超越した、しかも厳として存在する、高度で偉大な「本当の我」というものが潜在的にあることを知ったのです。ただそれを掘り起こしていないだけだというのです。

 ソクラテスが「汝自身を知れ」といったのは、この本当の我を知れということだと、天風先生はある日悟ったようです。この潜在的な本当の我を知り、これを上手に育てるならば、人間は、前に述べた低級な本能主義者や、悩み多き神経質で不安が大好きな理性主義者と異なって、断然、強く、高い精神力、そしてそれにともなって肉体の強い力も持つことができることを知りました。

 本能主義者のように、自分自身は本来どうせつまらないもので、弱く、また動物のような存在で、ただ寝て食って出して生きるだけでよいという考え方で生きていますので、どうせ人生なんてつまらないものだというような低級的な考え方をします。また人生は矛盾だらけで、理屈では解決できず、人生は悩むために生きていると考える理性主義者がいます。このような、自分や人生はどうせつまらないというような考え方では、どうして、それ以上の高く強い精神力を持つことができましょうか。

 この点、あの大哲学者、カントも、生まれつき極めて貧弱で恵まれない病弱な身体であったにもかかわらず、その不屈な偉大な精神力で、古希に達する長寿を達成したうえ、死ぬまで、数多くの大著述をなして、世の中の進歩に貢献したことは、あまねく知られていることですが、その臨終の際、次のように述べたといわれています。「私は、私の心に最大なる感謝を捧げる。私の生来の病弱体を今日まで生かしてくれたのはひとえに私の心の力である」と述べたそうですが、この心の力、つまり、強い精神力というのも、天風先生によれば、カントが心の中に本当の偉大な自分見出し、これを開発し、てたためだと思われます。

​ つまり、まとめますと、次のような天風先生の言葉に集約されると思います。・・・・・・・次回へ

 

 

 

 

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2016/06/30   院長

精神力

 第二の種類の人間は、理性主義的人間です。「心=我」であって、肉体はその付属物と考える人たちです。これは、人間を観察すると、目に見える肉体よりも、目に見えないのほうがはるかに偉大であることに気づた点で、第一の種類の本能主義者よりもかなり進歩している点があります。しかし、単純に自分は肉体という一個の物質的付属物を持つ心と考えますと、いわゆる、精神至上主義に陥り、理屈の力だけで、自分を統率しようとします。その結果、理性が発達するに伴い、理想も高くなる反面、かえって、世の中や自分のさまざまな問題点が見えてくる割には解決法がわからず、人間に対して不平不満、不安、心配、後悔などが次々と訪れ、落ち着きのない不安と煩悶(はんもん)の生活を送ることが多くなります。つまり、理性主義の人間は、理屈中心の頭でっかちで、精神衰弱的な人間となりやすいのです。世の中が嫌になり、暗くニヒルになる、いわば悲観主義者が多いのです。この点、先程の本能主義者は、肉体の要求、つまり、動物的要求をみたすだけでいいですので、それ以上の精神的なものを要求しませんので、かえって、理性主義者のようにはなはだしい悲観主義に陥らずに済みます。

 一方、理性主義者は、すべて理性、理屈の力で、解決しようとするので、いつも、不可解な疑問が生まれ、ますます安心できなくなる人が多いいようです。そして理性と感情の衝突が絶えず起こり、これを統率できないために、いつも精神的煩悶・不安を抱えている気の毒な人となります。それでは、第一の本能主義でも、第二の理性主義でも、力強い充実した人生を送ることができないとすれば、人間には、解決の道がないのでしょうか。天風先生も、この点で長年苦しみ、前述のような長年の人生修行を得て、この第一、第二のタイプの人間としての苦しみを経過し、ついに第三のタイプの人間になることに到達したようです。

 これによれば、だれでも、自分の中には、感情よりも、理性よりももっと優れた尊い、霊性​といっものがあります。・・・・次回へ

 

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2016/06/02   院長

精神力

 それでは、精神強化の第一の法則は「汝自身を知れ」です。この言葉は、ご存知かもしれませんが、古代ギリシャの大哲学者で学問の創始者とl言われるソクラテスが、神殿で見て感銘を受けたといわれることわざです。この言葉は中村天風先生が第一に影響を受けた言葉といわれています。自分自身は何者かを知ること。これが第一だというのですは。自分の精神力を強化するといっても、自分とは何か、自分の精神力の力とは何かを正確に知らなければ、強化しようがありません。これを知らなくては、ちょうどボクシングで、相手がどこにいるかもわからずに、やたらと労力を使い、空を打つ目の見えないボクサーと同じです。自分自身の精神、つまり、自分自身を正確に知ったときはじめて、確実な精神の強化法を知ることができるのは言うまでもありません。ところが、意外とこの根本のところをおさえないために、人生で苦しみ、多くの病気に悩まされ、人の言動に動かされ、くよくよして、実りのない空虚な人生を送る人が多いようです。そこで天風先生によると,汝、つまり、自分とは何かについてどのように人は考えるかという点から、その考え方から人を分類すると、おおよそ、人は三つの種類の人がいるとしています。

 第一の種類の人間は、本能的人間です。このタイプの人は、物質的な肉体を自分自身だと考えている人です。このような人は、自分の肉体が自分自身と考え、心とはその肉体の要求や五感の感覚から本能的に発生してくると考えます。したがって、心というものは脳を含む肉体から派生した付属物であり、心は肉体よりも低級だと考えます。つまり【肉体=我】と考え、心はその肉体の付属物だと考えます。即ち、肉体の要求のままに動く動物と変わりなく、本能的な人間です。私たちの周りにもたくさんいます。したがって、肉体本位に考えているため、肉体の好調な時には、得意の絶頂ともいうべき気分の良さを味わいますが、ひとたび、肉体の病に侵されたり、肉体が不遇の状態に置かれると、最後のよりどころは肉体と考えているため、その生きる根拠がなくなり、たちどころにに弱くなり、全く別人のようになってしまい、苦しみや悩みに振り回されまくります。つまり、強そうに見えたけど、動物とあまり変わらない原始的な低い精神の持ち主ということができます。

 第二の種類の人間は、理性主義的人間です。・・・・・・・・・・・・・・・次回へ

 

 

 

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2016/01/21 健康   院長

精神力

 こんにちは。長生治療院の西村です。東京の護国寺には、財団法人天風会があり、20代から20年間そこで心と体のことを教わりました。13歳から22歳まで一切の運動ができなかった頭でっかちのこの私が、すっかり元気をとりもどして山口県に戻ってこれました。すべてはこの世での有難い貴重な不思議な体験です。おかげ様で「魂の進化向上の修行は楽しいなあ」と心の底から思える時があります。最近は、健康で幸福な時を余裕の心で過ごしております。さて今回は「精神力強化」の法則を述べたいと思います。                       

 パナソニックの松下幸之助が、なぜ成功を収め、かつ、94歳の生涯まで生き生きと活動できたかを考えますときに、もちろん、松下氏が、自らの工夫と努力があるわけですが、一人の力だけでできるものではありません。誰でも同様ですが、松下氏にも人生の師匠、先生といわれる人がいたと思われます。松下氏が心と身体を強化するために最も貢献した先生とは、おそらく松下氏の思想やその他の記録から見て、中村天風氏でないかと思われます。中村天風氏については、書店で多くの本が出ておりますので、ご存知の方も多いいと思われます。今回は、日本における心と身体の健康運動の原点ともいうべき中村天風氏の提唱した理念を基本として、それを具体的にどう獲得するかを学んでみたいと思います。

 中村天風氏は、明治9年、東京に生まれ、波乱万丈の九十二年の人生を送りました。旧日本軍の中国における情報活動(つまり、スパイ活動)などをしたのち、結核などの重い病にかかり、苦しみの中からインドのヨガ行者と出会い、インドの奥地で悟りを得てアメリカに渡り、コロンビア大学医学部を卒業して、医学博士となり、その後、日本帰ってきて横浜銀行の頭取となり、それを惜しげもなく辞めて、財団法人天風会を作り、92歳で亡くなるまで、生涯現役で、広く日本の全国に心と身体の健康運動を推進し、多くの有能な人材を育てました。中村天風氏から教えを受けた人は、これまで累計百万人以上ともいわれ、多数の強い精神力を持ち、健康に優れた人材を輩出(はいしゅつ)しました。戦前は原敬首相、東郷平八郎元帥から、松下幸之助氏、京セラの稲森和夫氏、さらに98歳の生涯現役のまま亡くなった作家の宇野千代氏等まで、枚挙にいとまがありません。 

 なぜ、数ある方法の中から、最初に中村天風氏の理念を選んだかといいますと、まず、彼の精神力に対するビジョンが偉大であり、また崇高であること。そのビジョンは誰でも持つことができること。そして、このような多くの人材を育てた実績があるからです。人間として精神力を強化する以上、単なる目先だけのちまちました健康法ではなく、人間の尊厳が高められるような、レベルの高い、確実で、根本的な精神強化法をおこなわなければならないと思うからです。それでは、精神強化の第一の法則は「己自身を知れ」です。*******次回へ                          

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2015/10/01 健康   院長

病気(2)

 病気の種類は、大別すると三通りあります。その一つは純然たる肉体的な消耗によるもの。その二は憑依現象。その三は守護霊による作用。一は、精神が先走り(頑張りすぎる)肉体がついていけない場合。二は病気の大半を占め、地獄霊、動物霊の憑依。この場合は自意識過剰な自己保存が主たる理由であり、反省し、正しい想念行為に改めない限り、病気の状態は変わりません。守護霊による作用は、本人の自覚が先決です。いずれにせよ病気は,想念と行為にその原因がみられるものです。

 憑依(ひょうい)について、もう少し突っ込んで説明をしてみましょう。人の意識が、動物霊、地獄霊等に憑依されると、人の悪口を言って威張り、一人よがり、無口、多弁,ウソつき,深酒、などの現象が顕著になってきます。そして、これが進行すると、病気や災難、家庭不和、事業の生き詰まりにもつながってきます。病気の70%は、憑依によるものです。交差点で止まっているとき後ろからぶつけられる、歩道を歩いていて後ろから自動車にハネられる、頭上から鉄材が降ってきて思わぬ怪我をすることなども、同じように、憑依による現象です。憑依がさらに進行すると、精神分裂になります。気違いです。こうなると、透明人間の声が聞こえてきたりして、自分の意識が他界者に完全に支配され、眠りが浅くなり、就眠することができなくなってしまいます。ノイローゼのほとんどは憑依によるものです。

 人間は心と肉体から成り立っています。憑依とはあの世の低段階の地獄霊、動物霊が、鉄が磁石にくっ付くように、人の心に憑くことをいいます。なぜ憑くかというと、もともとその本人の、物の見方、考え方が非常に偏っており、欲望や執着が強いために、これと同じような心を持っている動物霊や地獄霊が、寄ってくるのです。類は友を呼ぶ、ということわざの通りです。憑依は四六時中続いているかというと、通常は、憑いたり、離れたり、心が偏った想念に支配されると憑依し、そうでないときは離れます。飲酒すると人が変わるが、素面(しらふ)のときは真面目人間というのがよくあります。最初は不眠、頭痛から始まる人が多いいようです。しかし憑依の時間が長くなるにしたがって、その性格が変わってゆき、病気がちになってきます。精神病は、その憑依時間が、長時間になるために起こるものです。

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2015/05/13 人生相談   院長

病気

誰しも健康で元気に生涯を過ごせればこれほどの幸せはないと思います。だのに病気(災難を含め)はいつやってくるかわかりません。病気の原因と病気から解放されるということは、人間である以上、不可能なのでしょうか?                 37歳(厄年)女        

 病気の状態についてまず説明しましょう。病気は文字通り、気の病であり、肉体がやむというよりも実は肉体細胞を司る意識が病むものなのです。胃腸には胃腸の意識があり、心臓には心臓の意識があります。その意識が正常な活動を失い不活発になるために、その部分が痛んだり病んだりします。勿論、一か所が痛めば体全体にも影響し、全体の活動をどんどん弱めていきます。

 人間の意識を、大きく分けますと、魂意識と体の各部分を動かしている細胞意識があり、病気はその両方が病むものですが、その原因は、表面意識(表面意識の奥にある想念帯意識も含む)にあります。怖いものを見て体がすくむ。怒ったときに心臓がドキドキする。笑ったあとはお腹がすきます。このように表面意識と細胞意識というものは密接な関連を持ち、表面意識に細胞意識が常に左右されています。したがって、先天性の場合をのぞいて、病気の大部分は表面意識にその原因をみることができます。そして、細胞意識の病む場合は多分に肉体遺伝の場合がおおいいのです。人間の魂意識(潜在意識層)は神の子でありますから、病気になるということはありません。すなわち、意識の中心である心は、病むということはないのです。ただ魂意識層にある守護霊が人によっては表面意識と足並みをそろえて病むことはありますが、意識の中心である心まで病むことはないのです。

 この意味から、心だけをみるならば病気は本来ないということになります。ところが現実には病気はあります。病気の原因は前述の通り、怒ったり、そしったり、争いの想い、対立感情にあるのですが、それは想念が原因です。釈迦はこれを人間のカルマといい、イエスは原罪と呼んでいます。こうしたカルマが表面意識を通して想念帯に病巣を作り、肉体的病気となって現れてくるのであります。また、仮に、生まれてから死ぬまで人の道に外れずにチャンと生きた人がいるとします。その人は病気をしないかというとやはりします。後天的には立派でも先天的なカルマが表面に出るからです。この世には過去世のカルマを修正するために生まれ出ているのですから、後天的な理由だけのものではありません。ただし、この場合、十の先天的カルマは、後天的な善なる行為によって、五になり、三になり、一になります。つまり悪と善の相殺作用が働きます。この意味で、人は、現世で悟ったとしても、病気から解放されるということは、まずないのです。まして、人間は神仏になることはできません。悟りに限界がないのと同じように、過ちは人間には、常についてまわるものだからです。--------次回へ

 

 

 

 

                     

 

 

 

                                                                 

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2015/03/03 人生相談   院長

幸福(3)

 幸福とは不幸でないことです。そして、不幸とは病、貧乏、煩悶(はんもん)のことです。だから、この3大不幸から解放されると誰でも簡単に幸福になれます。中世のある哲学者も人生の3大不幸として、病と貧乏と煩悶を挙げたといいます。それ以後のほとんどの哲学者も、この考えかたを支持してます。病に負けず、悩み事があっても、その悩みをバネとして人生に生きる意義を見出すことができ、貧乏を少しも苦にしない人は幸福です。そこまでいかなくても、身体が健康で、あまり悩むことがなく、ある程度の生活ができるだけのお金があれば、その人は幸せであると言えるでしょう。

 幸せになるためには、まず心を強くし、強くなった心を、うまく使いこなすことが大事です。と同時に、心ばかりでなく身体の活かし方、使い方についても、自然の理にかなったやり方が大事です。これから少しずつ述べていきますが、正しい方法で実行すれば、人間が生きるために宇宙から与えられた力を、豊富に取り入れることができます。そして、病、貧乏、煩悶の三大不幸から解放され、幸せな人生を実現することができるのです。誰でも長生きをしたいと願わない人はありません。若いうちはともかく、年を取るにしたがって、何とか長生きをしたいと考えるようになります。これは人間の本性です。どんなに優れた才能を持っていても、短命ゆえにその才能を生かせなかったとしたら、本当に幸せな人生であったとは言えないでしょう。ただ長生きしたというだけで病弱のうちに一生を過ごしたり、何らなすところもなく漠然と生涯を送ったり、煩悶や貧乏に苦しむ生涯であったりすれば、せっかく人間として生まれた生きがいがありません。年をとってから痴呆や寝たきりの状態で、周りの人々に介護をしてもらいながら人生の最後を迎えるのは、あまり、幸せな人生とは言い難いでしょう。最後まで心も体も強健でなくては、幸福な人生であったとは言えないのです。人間は一人で生きることはできず、社会の中で人々とともに生活しています。そして、人生には社会の中でなすべき多くの事業や仕事が一人一人に振り当てられています。それを完全に成し遂げ、社会的にも有用な幅の広い生き方をしてこそ、生きがいのある人生であったと言えるのではないでしょうか。どこで生まれ、どこで死んだか、何をしたかわからないような一生であっては、個人的にも、また、社会的にも価値のある人生であったとはとは申せません。人生は味わえば味わうほど、深い内容と価値を持っています。仕事や事業ばかりではなく、スポーツや趣味の生活においても、深く掘り下げ、心から楽しんでこそ幸せな人生といえます。長さと強さだけでなく、広さと強さが備わってこそ、幸福な生きがいのある人生といえましょう。

 このように、病・貧乏・煩悶という不幸の原因となりやすいものと縁を切り、長さ・強さ・広さ・深さを兼ね備えた人生を実現してこそ、生きがいのある幸福な人生を送ることができます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・終わり…詳細は今後になります・・・・・・・・・

 

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2014/12/04 幸福   院長

幸福(2)

 幸福とは自分自身が感じるものです。たとえ幸福の条件がそろっていても、心で幸福を感じない人は幸福でありません。反対に、幸福の条件がそろっていなくても、幸福を感じられる人は幸福なのです。メーテルリンクの有名な童話「青い鳥」では、チルチルとミチルが青い鳥(幸福)を求めて世界を巡ります。しかし、世界中のどこを探しても見つからなかった青い鳥は、結局、わが家に帰って見つけることができました。幸福とは主観的で、自分自身で感じるものです。たとえ傍から見て不幸な環境にある人であっても、当の本人に不平不満がなく、心から満足を感じている場合には、その人は幸福といえるでしょう。心が消極的で、何事に対しても、いつも不平不満ばかり口にする人間は、幸福を感じることはありません。その逆に、心が積極的で、いつも感謝と歓喜の感情を持ちながら暮らしている人は、幸福をしみじみと感じることができるものなのです。私たちが幸福になるためには、「お金」や「モノ」といった外的な条件を整えるとともに、「幸福を感じる」心の内的な条件を整える必要があります。

 それでは、外的条件と内的条件とでは、どちらを先に整えるべきでしょうか。実を言いますと、まずは内的条件の整備が先決なのです。外的条件を一つずつ整えようと頑張るのも心です。目標を立て、計画し、それを実行するのも心です。そして、幸福を感じるのも心です。即ち、心が幸福を作ります。ですから、不平不満のない、満ち足りた幸福を手に入れ朗とするならば、まずは自分の心の問題の解決に取り組まなければなりません。・・・・・・・・・・・・・次回へ

 

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2014/09/11 幸福   院長

幸福(1)

 日本では10年間で30万人強の自殺者が出ています。イラン・イラク戦争すら8年間で3万人前後といわれています。世界の人々は日本国を内戦状態にあるという人すらあります。なぜこういうことが現実に起こっているのでしょうか?日本人は幸福なんでしょうか?

 私たちは、やっとの思いで、この世に、人間として生まれてきて、健康と繁栄と幸福を願わない人はありません。しかし、「人間とは幸福な存在でしょうか、不幸な存在でしょうか?」と聞かれた時に、躊躇(ちゅうちょ)することなく、「わたしは幸福な存在です」と答えることができる人はめったにありません。どうしてなのでしょう。瞑想して、心を内側に向けて思い出してください。人間は誰でも、おかあさんのおっぱいで生かされてるときは、幸福のエネルギーのかたまりです。なのに私たちはいつの間にか、どこかで、誰かに、相手にとっての都合の良い正義(屁理屈)を刷り込まれてしまっているだけなのです。本当は、私たちは元々穢(けが)れのない神の子・仏の子なのです。慈悲と愛の塊(かたまり)なのです。本人が気づいていないだけなのです。

 さて、当治療院では患者さまの心身が軽くなり、10回ぐらいになりますと、次のような質問をすることがあります。「人間とはいったい幸福な存在でしょうか?不幸な存在でしょうか?また強いものでしょうか?弱いものでしょうか?」大方の答えは「人間は弱いものであり、不幸なものである」というものでした。「幸福とは何か」と聞かれると、ほとんどの人は、お金、社会的な地位名誉、家庭、楽しい仕事、あるいは美味しい食事、流行の洋服・バック、素敵な家などを挙げます。しかし、これらは幸福になるための条件であって、幸福そのものではありません。世の中には、お金や地位といった幸福の条件が全部そろっていても、幸福を感じることができなくて、欲望と煩悩だらけの心の貧しい人が少なくありません。

 幸福とは自分自身が感じるものです。・・・・・・・・・・つづく

 

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2014/08/31 幸福   院長

健康(4)

                   大熊星(北斗七星の話)     

 むかしむかし、この地球に恐ろしい大ひでりがありました。ありとあらゆる川、小川、井戸、なにもかもすっかり乾上がって木も藪(やぶ)も草も枯れてしまい、ひともけだものもかわき、日に日に死んでいきました。     

 ある晩一人の女の子が病気しているお母さんに飲ませる水を探そうと思って、杓(しゃく)を持って家を出ました。どこまで行っても水が見つからないので、女の子はつかれて野原の草の上に横になると、ついうとうと寝入ってしまいました。やがてふと目がさめて杓のえに手をかけた時、女の子はあぶなく水をこぼしそうにしました。杓はきれいな澄んだ水をなみなみとたたえているではありませんか。女の子はよろこんでそれを飲もうとしましたが、お母さんにあげる分が足りなくなると思って、杓を持って家へかけて行きました。ところが、あんまり急いだので、足元に犬がいるのに気がつかないで思わずつまずいた拍子に杓を取り落としました。犬は憐れっぽい声で鳴きました。女の子は急いで杓を拾い上げました。もう水はこぼれてしまったものと思いましたが、どうでしょう。ちゃんと杓の底に吸い付いてもとのままと少しも変りがありません。娘は手のひらに水を少し入れて犬にやりますと、犬はたちまちそれを飲みつくして、さも嬉しそうにはしゃぎました。娘がまた杓に手をかけると、木の杓が銀に変わりました。娘は杓を家へ持って帰ってお母さんにわたしました。するとお母さんは「わたしはどうせ死ぬんだから、いっそお前、自分でお飲み。」といって杓を娘に返しました。その瞬間、銀の杓が金に変わりました。その時娘はもうがまんしきれなくなって杓にくちびるをつけようとすると急に戸口から一人の旅人が入ってきて水を飲ませてくれと頼みました。娘はつばを飲みこみながら、杓を旅人にさしだしました。すると突然、杓の中に大きなダイヤモンドが七つ飛び出して、おまけにきれいな水がどんどんと、勢いよく流れ出ました。

 やがて七つのダイヤモンドは高く高く昇りはじめて、とうとう空に上がってしまうと、そこで大熊座になりました。

訳者のことば                                                                                    これは、古くからロシアの国に伝わっている昔話で、それをトルストイがとりあげて新しくつくったものです。トルストイは世界が生んだ最もすぐれた文豪の一人で、小説だけでなく、宗教、社会、政治、経済、教育その他、あらゆる人類の生活について立派な考えをもって「吾らは何をなすべきか」ということを教えてくれた人です。

 このお話を読んで、尊い自己ぎせいの精神、親切な友愛の精神を、よく味わうことが大切です。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おわり

 

 

 

                                                  

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2014/08/15 健康   院長
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